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​​辛亥革命

​​清朝打倒と排満興漢を掲げた民族ナショナリズム運動。1911年、清朝が外国の借款をうけるために民営鉄道を国有化して担保にしようとしたのを発端として始まった。武昌での蜂起を皮切りに、各省は次々と清朝からの独立を宣言。革命派は「中国同盟会」の首魁・孫文を臨時大統領に選出し、中華民国を建国した。

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​无政府主义小史

Chinese Anarchism

​西洋アナキズムでは国民国家の建設を求める民族主義は到底受け入れられないものであったが、列強支配からの解放を掲げて高揚する民族主義は、中国において無視できないものとなっていた。中国アナキズムにおける最大の特徴は民族主義とアナキズムとの妥協点・合致点を探った面にある。中国のアナキストたちは主にクロポトキンの相互扶助論を下敷きにし、「科学」と「進歩」を主軸としながら独自の理論形成と道徳修養に努めた。だが、袁世凱との軋轢で革命が難航するにつれて、やがてアナキストたちは現実的な改良主義、政治主義に吸収されていく。かろうじて残ったアナキズムもロシア革命で勢いづいたマルクス主義に飲まれてしまい、政治運動としては終わりを告げることとなる。

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​​第一世代

辛亥革命以前にアナキズムを受容した世代。東京でアナキズムの教育を受けた​グループとパリで受けたグループに分けられる。

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​​東京グループ

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​​劉師培(1884-1919)

​​「ああ…また何震に怒られる…」

経学で名を馳せた由緒正しい家柄出身で、順当に科挙に合格。章炳麟の招きで日本に渡り、北一輝の紹介で幸徳秋水と邂逅、アナキズムに傾倒する。排満革命の民族主義は強大な民族に抵抗し、背後にある帝国主義の強権を打破することにその本質があるとして正当性を主張する(このとき排満革命はアナキズム革命に包括される形にある)。後年は資金難に見舞われ転向、帝制護持に至る。張継とは盟友であり、鬼嫁の何震には頭が上がらない。

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​パリグループ

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張継(1882-1947)

​​「もう全部壊すしかないな」

1899年、日本に留学。しかし、かねてから留学生達の恨みを買っていた学生学監の辮髪を切り落し、鄒容・陳独秀らと共に清国に強制帰国させられる。『蘇報』、『国民日日報』、『民報』等幅広く執筆活動にあたり、1907年には李石曾らとアナキズム雑誌『新世界』を発行した。主に孫文のもとで活動し、国民政府の重鎮を務めながら反共姿勢を強めた。過激派。

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呉稚暉(1865-1953)

​​「これだから若い奴らは」

他のアナキストと比べるとやや年長である。苦学して科挙に挑んだが、会試には受からなかった。天津で教員を務めた後に​日本に留学、中国同盟会に所属する。李石曾とは長い付き合いで、アナキズムの知識はほとんど彼から教わったもの。​​孫文とも友好的な関係を築き、後年は国民党右派として活動。張継と同じく反共主義の立場をとる。蒋介石の上海クーデターにも協力。

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​​李石曾(1881-1973)

​​「悲観からは何も生まれませんよ。前向きに、一歩ずついきましょう」

清朝の高級官僚の息子。家庭教師の影響で経史以外にも地理学、天文学、国際学などを学び、四書五経を中心とする当時の科挙体制からやや外れた教育を施される。しかし、結果的にそれが彼に自由な発想をもたらしたため、好都合であったといえる。パリに渡り、ラマルクやダーウィンの書に親しみながらアナキスト・エリゼ=ルクリュの甥であるポール=ルクリュと接近、アナキズムを知る。

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​​第二世代

革命後受容、国内での活動に従事した世代。五四運動への橋渡しをするもマルクス主義者に敗北。

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​劉師復

(1884-1915)

「政治、政府…醜い。」

第二世代の先駆的アナキスト。幼少期から伝統的知識人たる教育を受け、15歳にして秀才に合格するが、科挙制度に疑問を抱き、意図的に不合格を選んで革命派に転向する。日本に留学し、中国同盟会に加入。帰国後は日本で学んだ爆弾製造技術で要人暗殺を謀る。しかし広州提督李潤の暗殺計画で爆弾が暴発し左手を失うとともに投獄される。獄中で仏教、ならびにアナキズムに接近。出獄したのちは再び暗殺団を組織し、研究を続けつつ暗躍する。革命後は新政権内部での利権争いに幻滅し本格的にアナキストとなる。晦鳴学舎、心社等を設立しアナキズムの宣伝と個人の修養に努める。31歳、肺結核のため没。

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​​朱謙之

(1899ー1972)

「ああ、死にたい」

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​​第三世代

​ロシア革命後に受容され、敗北を見据えつつも教育に従事した世代。代表者に小説家・巴金が挙げられる。

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チャイナ・アナキスト

​劉師培/張継/呉稚暉/李石曾/師復

李准暗殺失敗

​​師復

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​​革命への幻滅

清朝は倒れ、革命は成ったが、国家における実質的支配者は袁世凱率いる北洋軍閥であった。袁世凱は強権的姿勢徐々に強めていき、宋教仁暗殺を頂点にしてその独裁性を露わにする。これを受けて革命派は袁世凱に抵抗、「北伐」を開始するがあえなく敗北する。こうして帝制へと向かうかと思われた矢先、1916年に当の袁世凱が死亡。軍閥は統制力を失い、三国志時代さながら群雄割拠の様相を呈するようになる。

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新文化運動/文学革命

​​1910年代、辛亥革命以後に至っても文学界は儒教道徳や古い因習にとらわれていた。先進的な西洋と比較して、中国の文化的停滞に危機感を抱いた陳独秀らは雑誌『新青年』を発行し、文学界、ひいては社会の変革を図る。この雑誌では古文に代わって白話文(口語体)が使用され、標点符号の導入がなされた。またデモクラシー(徳先生)とサイエンス(賽先生)を国の新たな指針として掲げ、民衆の意識改革と啓蒙活動にあたった。『新青年』は若者を中心に圧倒的な支持を受け、五四運動に多大な影響を与える。

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​五四インテリゲンツィア紹介

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​​陳独秀

(1879-1942)


「「辛亥革命を革命する」…それがわしなりのケジメじゃ」

新文化運動の指導者、中国共産党初代書記長。文学者として、言語学者として、政治家として様々な顔を持つが、その気質は一貫して「書生」であったという。例に漏れず幼少より​​科挙の教育を受けるも、その形式的な詩体に飽き飽きしており、専ら「昭明文選」を読んで素養を磨いた。科挙受験のために南京へ出向くも、南京の廃れた様子や精神に異常をきたした科挙受験者たちに失望し、変革の必要性を痛感する。日本へ留学してから本格的に愛国運動に加わるが、辛亥革命がやがて醜い政争に堕するにつれすっかり意気消沈、絶望のあまり家に籠りきってしまう。ところがあるとき一念発起し、無名の文筆家を集めて『新青年』の前身『青年雑誌』を発行。厭世感に沈み込んでいた青年たちを熱狂させ、一気に名声を博す。その後北京大学学長・蔡元培の計らいで同大学の文科学長という異例の出世を遂げる。マルクス主義者となり共産党を設立してからは、コミンテルンと国民党の間で悪戦苦闘する。しかし上海における国民党の反共クーデター(上海クーデター)の責任を問われ、「日和見主義者」の汚名を着せられて除名。そのため中国本土での陳独秀の評価は長らく低いものとなっていた。

一度決めたことは変えない性格で、やや強引で頑固なところがある。

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​​追想

​​陳独秀

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​胡適(1891-1962)​​

​​「気持ちを引用で飾っては、

拙劣さが裏目にでるだけでしょう?」

哲学者ジョン・デューイのもとでプラグマティズムを学ぶ。アメリカ留学中に陳独秀の依頼を受け、有名な「文学改良芻議」を『新青年』に寄稿。文学革命を推進する。主義の主張よりも諸問題の解決を優先すべきとしたため、主義を重んじる李大釗とは度々衝突した。『新青年』がマルクス主義の宣伝雑誌となり陳独秀がトロツキズムに傾いてからは距離を置き、批判的立場に立つ。リベラリストとして国民党のイデオローグに担がれるが、敵対する彼を変わらず「死友」と呼び、根本的なところでは友愛の情を失わなかったと思われる。

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​​李大釗(1888-1927)

​​「政争に兵争…このような状況で「民権」と聞くのは、ただただしのびない」

マルクス主義者。日本へ渡って早稲田大学で政治学を学び、帰国後に『新青年』の同人として参加、新文化運動を担う。

「中国の大家族制は農業経済を本位としており、二千年来に渡って社会の基盤となっていたが、西洋の工業経済がそれらを圧迫し、都市部の形成が土地の制約を解きつつある今、大家族制とその上部構造である儒教も崩壊せざるを得ない」と考えている。1921年に陳独秀と中国共産党を設立し、南の上海を陳独秀が、北の北京を李大釗がそれぞれ指揮したことから「南陳北李」と称される。奉天軍閥によって同志19名と一緒に処刑される。38歳没。

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​​魯迅(周樹人)

(1881-1936)

​「看板が変わっても品物が変わらないのでは、お話にならないというわけです」

​​近代中国最大の文学者。魯迅はペンネーム。藪医者に治療を任せたせいで一向に病状が良くならず、ただただ苦しんでいく父親をみて、どうにもできない自分の無力感に苛まれる。そんな中、日本の近代化が西洋医学の導入によってなされたことを知り、医者を志し、日本に赴く。「藤野先生」こと藤野厳九郎教授による暖かな指導のもとで医学を学ぶが、あるとき偶然日露戦争時のスライドを目にし、そこに映された中国人スパイの処刑と、それを無表情で見物する中国人をみて衝撃を受ける。「中国人はせいぜい見せしめか見物人になるしかない」と感じた魯迅は、真に治療すべくは中国人の意識であることを悟り、医学を捨てて文学の道を歩む。1918年、友人・銭玄同の提案と独秀の熱烈な誘いを受け、白話文小説『狂人日記』を『新青年』に寄稿する。

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​​周作人(1885-1967)

「それぞれの木がそれぞれに繁茂してこそ、
森は繁茂するのですよ」

1906年に日本に留学。帰国後は魯迅と共に外国文学を翻訳、出版などをしていた。北京大学文科教授としてヨーロッパ文学史や日本文学の講義を行うかたわら「文学革命」に参加。『新青年』に寄稿し、個人に重きを置いた人間解放を謳う。これには中国に長きにわたり浸透していた「家族主義」からの脱却も含まれていた。またロシア文学にも着目し、ドストエフスキーを人道主義者として紹介。日本の「新しき村」運動にも関心を示した。日中戦争時にも北京にいたが、やがて華北政権の教育行政面に協力したことで「漢奸」の罪を言い渡される。晩年は、隠遁生活を送るなかで日本の狂言やギリシア神話の研究にあたった。

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『新青年』読者投稿

​​陳独秀/胡適/李大釗/魯迅/周作人

​​後日談

​​陳独秀/胡適/李大釗/魯迅/周作人

​編集会議

​陳独秀/胡適/李大釗/魯迅/周作人

​李大釗について

​​李大釗/陳独秀

​​人類戦士さくさく

​​周作人

​​胡適について

​​胡適/魯迅/陳独秀

​​結婚話

​李大釗/胡適/魯迅/周作人/陳独秀

『新青年』読者投稿②

​​陳独秀/胡適/李大釗/朱謙之

​兄について

​​魯迅/作人

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あの日の

毛沢東/朱謙之

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to be​ continued...

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