目次
ドイツ観念論
あるいは終末論的陶酔
近隣諸国が次々と産業発展・国民的統一を果たすなか、神聖ローマ帝国由来の封建制が未だに残るドイツでは、強固な政治的制約が思想家を縛っていた。そうした政治的背景にあって、思想家たちは深遠な観念の世界に居場所を見出しロマン的傾向を示すようになってゆく。しかし、これは決して現実からの「逃避」を意味をしなかった。観念論者たちは旧世代と新世代の歴史的断絶を誰よりも強く意識し、理性によるその統一を自らの使命として生涯をかけて模索したのだった。
カント(1724-1804)
「近づけば離れ、離れれば近づく。それもまた自然なのだよ」
ケーニヒスベルク出身。敬虔なキリスト教の家庭に生まれる。大陸合理論とイギリス経験論を総合して、理性の及ぶ範囲とそうでない範囲を区別し、独自の批判哲学を打ち立てる。朝から晩まで極めて規則正しい生活を送り、午後三時半きっかりに散歩する彼をみて人々が時計を合わせた逸話は有名。
フィヒテ(1762-1814)
「恐れることはない。世界は「私」の中にある!」
ドレスデン郊外の貧しい家庭出身。幼い頃から頭がよく、教会の牧師の説教を丸暗記するほどの記憶力を有し、その才能を見込んだ貴族の援助を受けて学問の道に入る。カントの弟子として学びを受けるも彼の理論/実践の二元論には否定的であった。哲学では自我の意志作用を重視する主観的観念論を主張。ナショナリズムに傾倒したり宗教に接近したりと、情熱的な性格。
シェリング(1775-1854)
「反省、反省、反省…徒な懐疑だけが哲学だとは思わないな」
20歳でフィヒテの主観的観念論を完全に理解し、フィヒテをして自らの「後継者」と言わしめた神学徒。しかし直にフィヒテとは袂を分かち、同一哲学と呼ばれる思想を確立するようになる。同一哲学とは、自然と精神の二元論的な対立を超え、存在の根底にある無制約的な同一性=絶対者を説くものであり、スピノザの汎神論に近しいとされる。
ヘーゲル(1770-1831)
「現実は裏切らないよ」
シュトゥットガルト出身、ドイツ観念論の完成者。シェリングとは同じテュービンゲン大学出身で親友の間柄だったが、彼の「絶対者」なる考えに反対し、のちに決別する。『精神現象学』『法哲学』など、難解な哲学で知られる。特に有名なのは弁証法で、矛盾と対立を契機として発展していく理性的な運動のことをいう。ベルリン大教授、プロイセン国家の牙城。
ヘーゲル左派(青年ヘーゲル派)
1820年代からヘーゲルの没する1831年にかけて形成されたヘーゲル学派の中で、
のちに政治的急進性を帯びるようになった一派。『法哲学』の命題である
「理性的なものは現実的なものであり、現実的なものは理性的である」のうち、
前者に重点を置く。哲学を社会的実践に置き換える「行為の哲学」を提唱。
ダーフィト・シュトラウス(1808-1874)
「文字としての聖書は死んだが、精神として蘇るであろう」
異端の神学者。1835年に出版した自著『イエスの生涯』にて聖書の伝統的解釈並びにイエスの史実性を否定し、ドイツ神学界・哲学界に一大センセーショナルを巻き起こす。神性と人性の統一はイエスという個ではなく「類」という多数者をもって実現されるとした。
フォイエルバッハ(1804-1872)
「感性は理性のはしためではない」
「非哲学の哲学」を説き、ヘーゲル左派を唯物論的に方向づけた哲学者。水と魚の関係のように「存在」と「本質」が切り離せないことを指摘し、その延長として、神の本質は人間自身の性質によるものと主張する。
マックス=シュティルナー(1806-1856)
「君らの言う『人間』という述語には、主語があるのか?」
実存主義者、ニヒリスト、無政府主義者など肩書は様々である。フォイエルバッハが「人間」を神とみなし、従来と同じヒエラルキーの元に人間を置いているとして批判、個人の固有性=「唯一者」を自論の根本におく。
ブルーノ・バウアー(1809-1882)
「〈類〉も〈唯一者〉もドグマにすぎん。無力さの投影、無機質な塊だ」
元ヘーゲル右派。マルクスの師であり、同じくヘーゲル左派のエドガー・バウアーの兄。自己を普遍性へと高めることによって社会的実態の普遍性を剥奪する「純粋批判」を唱える。なお、「純粋批判」は内的矛盾を指摘するにとどまり、古い規定性に別の規定性を対置するということはしない。
アーノルド・ルーゲ(1802-1880)
「世論こそ歴史と呼べるものではなかろうか」
ジャーナリスト。『ハレ年誌』を創刊し、ヘーゲル左派の思想を世に問う場を提供した。国民代議制、陪審制の導入、出版の自由など、明確に政治革命を志向する。ほかにも独仏連合や世界市民的世界などを構想するが、民族主義に敗北する。
モーゼス・ヘス(1812-1875)
「我々の絶望と希望は自由競争の先にある」
ユダヤ人。ドイツにおける社会主義運動の最初の指導者。イギリスのような産業大国において変革がおこれば他国もそれにつづき、資本と労働の対立関係もやがては均等化するだろうと期待を抱いている。晩年はユダヤ人救済の憧憬をもってシオニズム思想を展開する。
※ヘーゲル哲学において〈社会〉は〈国家〉の媒介項としてしかみなされなかったが、産業発展による市場の拡大に伴って〈社会〉が〈国家〉と等しい関係、またはそれ以上の関係にあるのであはないかとの見方が強まってきた。ヘーゲル左派の哲学はその時流に乗っていると言える。
「或るけなげな男が、あるとき、人間が水に溺れるのは重さの観念のとりこになっているからにすぎないと思い込んだ。この観念を迷信的な、なにか宗教的な観念だというふうにでも宣して、それを念頭から追い払えば、水難の恐れなしと考えた。…このけなげな男がドイツの新しい革命的哲学者たちの典型だったのである。」
『ドイツ・イデオロギー』冒頭、一部引用
科学
×
ユートピア
×
イデオロギー
1848年革命~IWA誕生
ドイツ観念論、ヘーゲル左派を経て神学の否定と政治への世俗化が図られ、一部の革新派や労働者たちの間に歴史の創造主体としての意識が芽生えはじめた。この流れの中で様々な形の理想世界が描かれることとなったが、その理想は1848年革命の失敗とその反動を受けて大きく頓挫することとなる。この挫折は一部の革新派を実証主義へと向かわせるきっかけとなった。
1848年革命
独、仏、伊、墺などで勃発し、ウィーン体制の崩壊を招いたヨーロッパの一連の革命のこと。「諸国民の春」とも言われ、君主制に対するナショナリズム・自由主義の高揚と諸民族の独立運動をその特色とする。社会主義者なども加わっていたが、ルイ=ブランによる国立作業場建設失敗や六月暴動における鎮圧などで、彼らにとっては苦い経験となった。
革命家たち
ヘーゲル左派から出発。実験場は酒場から社会に。
マルクス&エンゲルス
(1818-1883)
(1820-1895)
「無知が役に立った
試しはない!」
「ですね」
共産主義者。元ヘーゲル左派でありながら、彼らが観念的な思弁から抜けきっていないとして批判。自らの唯物論的立場を強固にする。皮肉屋でなかなか人を信用しないマルクスと友好的でウィットに富むエンゲルスの二人組。
バクーニン
(1814-1876)
「死人に口無し!
影響を及ぼせるのは
生ある者だけだ」
アナキスト。後述
ラッサール
(1825-1864)
「〈現代のロベスピエール〉とはこの私のこと!」
ユダヤ人の国家社会主義者。大学ではヘラクレイトスの流転の素因について研究していた。反封建主義闘争と銘打った伯爵夫人の離婚訴訟問題で一躍有名となる。雄弁で人を退屈させないが、少々目立ちたがり屋なところがあり、非常に派手な格好を好む。「夜警国家」は彼の言葉。
ヴィルヘルム・ヴァイトリング
(1808-1871)
「君にも神の加護があらんことを!
ああ、この花はサービス」
キリスト教的共産主義者で義人同盟のリーダー。仕立屋を営み、渡り職人として各国を遍歴しながら生計を立てていた。眉目秀麗でキザったらしく、女性に大変モテた。自分こそがイエスのような人類の解放者だと固く信じている。人々の感情に訴えて組織を形成するアジテーターの性向が強く、理論を重視するマルクスとは馬が合わなかった。
ピエール・ジョセフ・プルードン
(1809-1865)
「悪とは限界のことだ。」
フランス・ブザンソン出身。貧しい醸造職人の家庭に生まれ、仕事のために学校にはろくに通えなかった。しかし知的好奇心は人一倍旺盛で、地元の図書館に通い詰めて独学で教養を身に着ける。印刷職人として働いてからもそれは変わらず、やがて思想家としての頭角を現す。
「私有財産は強者による弱者の搾取であり、共産主義は弱者による強者の搾取である」と指摘、その止揚形態であるアナキズム(アナルシー)を主張する。だが1843年にはこのような考えを改め、矛盾が新たな矛盾を生む「系列の弁証法」を説き、不完全性の連続こそが社会の動的観念を支えるとした。「アナキズムの父」と称されるが、プルードンの言うアナルシーは国家の廃絶ではなく、国家の管理機能を産業体制に還元し、その役割を最小限に抑えることにある。